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聖徳太子の死因は感染症?何歳で死んだや死んだ場所などを解説

聖徳太子は、様々な国制改革、遣隋使の派遣など、日本を発展させていった姿が印象的ですが、死因についてはハッキリしていないません。

聖徳太子の死因は、感染症である天然痘だと言われています。

死因の謎、天然痘、聖徳太子の生涯などを解説していきます。

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聖徳太子の死因

聖徳太子の死因は、感染症である天然痘だと言われています。

聖徳太子が建てた法隆寺の金堂内には、釈迦三尊像の背部に聖徳太子に関する銘文が記されています。

その銘文によると、聖徳太子の母である穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)が621年12月に亡くなり、622年2月に聖徳太子が病にかかりました。

妃の一人である膳部菩岐々美郎女(かしわでのほききみのいらつめ)も病にかかり、622年2月21日に亡くなりました。

そして翌日の22日に聖徳太子が後を追うように亡くなったと記されています。

立て続けに亡くなるところから、後に日本を苦しめる天然痘が死因だと言われています。

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天然痘とは

天然痘とは感染症の一種であり、紀元前から存在していたウイルスです。

症状は、発熱、頭痛、悪寒、発疹が広がるという特徴があり、死にいたる恐れがある病気です。

紀元前のエジプトのミイラに天然痘に感染した痕が確認された結果があるので、大昔から存在していたことは確かである。

イギリスの医学者である、エドワード・ジェンナーがワクチンを開発し、天然痘の根絶に導きました。

1980年5月にWHOは天然痘の世界根絶宣言を行い、現在まで大きな発生は見られません。

天然痘とは、紀元前から存在していた感染症です。

日本による天然痘

日本では飛鳥時代あたりから天然痘が確認され、多くの人々が苦しんだ状況が、歴史書である「続日本紀」に記されています。

免疫を持っている人が少なかったので、命を落とした人が多かったと考えられます。

当時の中国である唐や、朝鮮半島の新羅や百済との交流により感染症が広がったと考えられ、現代にも通ずる原因である。

当時の日本は感染症という概念がなかったので、神による天罰という考えがありました。

飛鳥時代は仏教が広まっていく時代でもあり、異国から疫病神が襲来したという見方もされていました。

疫病神は犬と赤色を嫌うという言い伝えがあり、衣類を赤ずくめにする風習もあったそうです。

奈良時代に高い権力を握っていた、藤原鎌足の孫である4兄弟が相次いで天然痘で亡くなるという事態もありました。

奈良の大仏の建立のきっかけは天然痘であり、仏の力を借りて災いを退ける考えがありました。

江戸時代末期に、西洋から種痘というワクチンが伝わり、天然痘の治療に取り組みました。

飛鳥時代あたりから顕著に天然痘が確認されます。

聖徳太子の生涯

聖徳太子は、飛鳥時代の朝廷で摂政という立場に就き、仏教を受け入れ、国の改革に努めた役人です。

古墳時代の574年に、父の用明天皇と皇族である母の穴穂部間人皇女との間に生まれた皇族である。

父と母は腹違いの兄弟です。

本名は厩戸(うまやと)と言われており、厩戸皇子、上宮太子、豊聡耳(とよとみみ)など様々な呼び名があります。

聖徳太子は後世に造られた尊称です。

587年に、仏教を受け入れるかどうかをキッカケに、豪族である蘇我馬子と物部守屋の軍が争う、丁未の乱が起きました。

そのとき聖徳太子は14歳であり、父と母が2人とも蘇我氏と血のつながりがあるので、蘇我氏側として参戦していました。

戦勝を祈願するために、仏教の守護神である四天王を模した木像を作り、戦勝したら仏教を広める約束をしたエピソードがあります。

戦は蘇我氏側が勝利し、太子は後に、大阪にある日本最古の寺である四天王寺を建立しています。

593年に、皇太子に任命され、摂政という天皇の政治を補佐する役職に就きました。

この時代は、日本初の女性天皇であり、太子の叔母の推古天皇、蘇我馬子、聖徳太子の三人が中心となった政治体制でした。

600年には、隋に遣隋使を派遣し、当時の中国の先進的な国の仕組み、考えや文化を取り入れました。

603年に、階級制度である冠位十二階を制定します。

冠位十二階は、上から徳・仁・礼・信・義・智、それぞれ大・小をつけた合計12段階の階級を定めた制度です。

今までは豪族が代々位を引き継いでいましたが、実力に応じて昇進できるようになりました。

例として、遣隋使で有名な小野妹子が、権力のある家柄ではないにも関わらず、大徳という1番上の階級に昇進しています。

604年に、日本で初の憲法である、十七条の憲法を制定しました。

今のような国家に対しての内容ではなく、朝廷の役人たちを対象にした道徳的な心得のようなものです。

冠位十二階や十七条の憲法は、あやふやな部分があるが、日本が進歩したことは確実である。

607年には、日本最古の木造建築物である法隆寺が建立されました。

建てた理由は、父の用明天皇が病気になったとき、治ることを祈願に建てようとしたが、建つ前に亡くなりました。

その意思を継ぎ、聖徳太子と推古天皇が法隆寺の建立を進めました。

621年には、母の穴穂部間人皇女が亡くなり、翌年に妃の1人である膳部菩岐々美郎女が亡くなります。

その後に聖徳太子が後を追うように49歳で亡くなりました。

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まとめ

・聖徳太子の死因は感染症である天然痘だと言われています

・天然痘とは感染症の一種であり、紀元前から存在していたウイルスです

・日本では、飛鳥時代あたりから顕著に確認されます

【聖徳太子の年表】

(古墳時代)

・574年(0歳):聖徳太子の誕生、父は用明天皇、母は穴穂部間人皇女

・587年(14歳):蘇我馬子と物部守屋による丁未の乱では、馬子側に加わり、蘇我馬子が勝利する

(飛鳥時代)

・593年(20歳):皇太子に任命される、摂政になる

・600年(27歳):遣隋使を派遣する

・603年(30歳):冠位十二階が制定される

・604年(31歳):十七条の憲法を作る

・607年(34歳):法隆寺を建立する

・621年(48歳):母の穴穂部間人皇女が亡くなる

・622年(49歳):妃の1人である膳部菩岐々美郎女が亡くなり、その後に聖徳太子が共に斑鳩宮で亡くなる

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