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金閣寺を建てた人は誰?建てた理由や見どころなどを簡単に解説!

金閣寺は、教科書や修学旅行で1度は目にしている人が多いはずですが、建てた人や金閣寺自体の詳細は深く知られていないと思われます。

金閣寺を建てた人は足利義満です。

義満の大まかな生涯、金閣寺の詳細などを紹介していきます。

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建てた人は誰

金閣寺を建てた人は、室町幕府第3代将軍、足利義満です。

初代将軍である足利尊氏の孫です。

1367年に、2代将軍で父の足利義詮が亡くなると義満が家督を継ぎ、翌年に11歳で3代将軍に任命されました。

幼少の頃は南北朝時代の最中であり、後醍醐天皇を中心とする南朝と、足利氏を中心とする北朝という2つの朝廷が存在していた時代です。

2人の天皇が存在しており、互いに対立していました。

1378年には、御所を室町(現:京都市上京区)に移し、通称「花の御所」と呼ばれた。

この地にちなんで、後世で室町幕府と呼ばれた。

1392年に、義満は南朝と北朝の統一を図り、長年続いてきた南北朝の対立が終結しました。

南朝には北朝に立ち向かう力がなく、交代で天皇を出すなどの理由で統一できたと言えます。

1395年、義満は息子の足利義持に将軍職を譲り隠居したが、実権は握り続けていました。

朝廷の最高職である太政大臣に昇進し、公家と武家、両方に対して力を持つ存在になりました。

出家することで、より自由に動ける目的もあったと考えられます。

1401年に、モンゴル帝国との戦いである元寇以来、中断していた中国との国交を開始します。

日本からは、刀剣類、扇、硫黄などを送り、特に日本刀は中国で人気があったらしいです。

中国からは銅銭、絹織物、砂糖などが輸入され、独自で富を築きました。

このときに、勘合貿易というお互いに勘合符という札を見せ合い、正式な貿易船だと証明するシステムを導入したのが特徴です。

この時代、倭寇と呼ばれる海賊が大陸付近を荒らし回っており、日本からの貿易だと証明するシステムが必要でした。

1406年に、後小松天皇の母が亡くなり、義満の正妻を准母という天皇の母の代理という立場にしました。

義満は天皇の位に匹敵する立場に近づこうとしたが、1408年に49歳で亡くなりました。

義満は金閣寺を建立したイメージが強いが、南北朝を統一させ、早くに将軍を退き貿易で富を築くなど、才覚のある人物だとわかります。

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金閣寺はいつ、どんな理由で建てられた

金閣寺は、1397年に京都の北山(現:京都市北区)に、別荘として建てられました。

自分の権威を示したり、独自の文化を築く目的もあったと考えられます。

舎利殿の屋根の真ん中には、天皇の象徴としてイメージされている鳳凰が飾られており、義満自身が天皇に代わる存在だと示している説もあります。

金閣寺の見どころ

金閣寺は1994年に世界遺産に登録されており、見どころは様々ですが、金色に輝く舎利殿がシンボルと言えます。

金閣寺は通称であり、鹿苑寺(ろくおんじ)という名が正式名称です。

金閣寺は様々な建物や名所を総合した呼び名であり、あの金色の寺は舎利殿と呼ばれる種類の建物であり、別名が金閣です。

金閣

金閣は別名で、舎利殿と呼ばれる種類の建物であり、金閣寺で最も有名なスポットです。

迫力ある金箔の輝きが最も印象的であり、世間に認知されている部分と言えます。

3階建であり、1階は公家をイメージした寝殿造、2階は武家をイメージした書院造、3階は中国風を取り入れた唐風禅宗様式という造りです。

それぞれ異なる様式を調和させるという、画期的な美しさを出しています。

屋根には黄金の鳳凰像が飾られており、足利義満の権威を象徴しているかのようです。

1950年に、金閣は放火事件により焼失してしまい、現在あるのは再建したものです。

再建前の金閣は金箔の剥げ落ちた、今のような豪華な雰囲気ではなかったようです。

金閣寺を象徴する金閣は、最も有名なスポットと言えます。

鏡湖池

鏡湖池(きょうこち)は金閣の前にある池であり、水面に金閣や庭園の木が映るという美しさがあります。

池には葦原島、鶴島、亀島などの島があり、松の木が生えていたりと味わい深いです。

金閣を含め全体を見渡せば、和の雰囲気を肌で楽しむことができます。

夕佳亭

夕佳亭(せっかてい)は、江戸時代の茶道家である金森重近が建てた茶室です。

床柱には、曲がりくねった南天の木が使われているのが特徴です。

「夕日に映える金閣が特に佳い」という言葉が由来であり、言葉の通り夕佳亭からは金閣が見下ろせます。

現在あるものは1874年に再建されたものですが、古風で奥が深そうな雰囲気です。

金閣寺と銀閣寺の違い

金閣寺は足利義満が建てた寺院であり、銀閣寺は第8代将軍の足利義政が建てた寺院です。

金閣寺から8kmほど離れた、京都の東山(現:京都市左京区)に建てられています。

銀閣寺の正式名称は慈照寺(じしょうじ)であり、国宝に指定されている観音殿という建物が、別名「銀閣」と呼ばれています。

銀閣寺も他のスポットを含めた寺院名であり、銀閣はその1つです。

銀閣は金閣と比べて派手ではないが、質素で渋い雰囲気があります。

義満は、金閣のように華麗で貴族的な雰囲気である、北山文化というものを築きました。

それに対して、義政は質素でわび・さびを意識した東山文化を築きました。

足利義政は、将軍としては活躍できなかったが、日本文化の発展に尽力した人物です。

落ち着いて味わい深い雰囲気が好みであり、それゆえ銀閣は落ち着きのある見た目にしたのだと考えられます。

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まとめ

・金閣寺を建てたのは、室町幕府第3代将軍の足利義満である

・足利義満は、南北朝を統一させ、早くに将軍を退き貿易で富を築くなど、才覚のある人物でした

・金閣寺は、1397年に京都の北山(現:京都市北区)に、別荘として建てられました。

・自分の権威を示したり、独自の文化を築く目的もあったと考えられます。

・金閣寺と銀閣寺の違いは、銀閣寺は第8代将軍の足利義政が建てた寺院です。

・義満が築いた華麗で貴族的な文化を北山文化と呼んだ。

・義政が築いた質素でわび・さびを意識した文化を東山文化と呼んだ。

・金閣寺と違い、味わい深い落ち着きのある雰囲気を意識しています。

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