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法隆寺を建てた人物とは?誰が建てたかや建てた理由などを解説!

法隆寺は奈良県にある有名な寺院ですが、誰が建てたかご存じですか?

法隆寺は聖徳太子が建てました。

聖徳太子や法隆寺の詳細について解説していきます。

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法隆寺を建てた人物

法隆寺を建てた人物は聖徳太子である。

飛鳥時代に、摂政という立場で政治に携わっていた人物です。

古墳時代の天皇の一人である用明天皇の息子であり、聖徳太子は天皇の一族になります。

聖徳太子は後世で呼ばれるようになった名称であり、本名は厩戸王、厩戸皇子など厩戸(うまやと)と言われています。

聖徳太子でイメージするのは、冠位十二階や十七条の憲法の制定、複数の人の声を聞き分ける説などが有名である。

冠位十二階とは、日本初の役人たちの階級制度です。

徳、仁、礼、信、義、智、それぞれに大と小とで分けられた、合計12段階の階級という仕組みである。

それまでは、各豪族が代々位を引き継ぐという世襲制であったが、個人が実力で昇進できるようになりました。

遣隋使で有名な小野妹子は、5番目の大礼から1番上の大徳まで昇進した人物です。

十七条の憲法とは、日本初の憲法であり、現代のような憲法と違い、朝廷に使える役人に対して定めた、道徳的な心構えが記された内容です。

聖徳太子は仏教を広めることにも尽力し、法隆寺を建てたのもその考えがあったからだと考えられます。

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法隆寺とは

法隆寺は607年の飛鳥時代に、奈良県生駒郡斑鳩町に建てられた寺院です。

聖徳太子を宗祖とする、聖徳宗という仏教の宗派があり、その総本山が法隆寺である。

日本最古の木造建築物であり、姫路城と一緒に日本初の世界遺産に選ばれた記録があります。

建立したキッカケは、聖徳太子の父である用明天皇が病気の時、治ることを祈願するために建てようとしたのが始まりです。

しかし、できる前に亡くなってしまい、聖徳太子が後を継いで建立しました。

この時代は、仏教の力を借りて災いや病気を解消する考えがありました。

聖徳太子は、20歳で摂政という天皇の補佐をする役職に就き、国の改革に尽力しました。

このことから法隆寺は、学業成就や入学祈願などの学問に関する御利益があると言われています。

西院伽藍と呼ばれる区域に五重塔や金堂などがあり、法隆寺を象徴する部分です。

現存する法隆寺の西院伽藍は、聖徳太子の時に建てられたものではなく、一度焼失した後に建てられたものです。

元々は、現在の西院伽藍から南東の少し離れた位置に、若草伽藍と呼ばれる区域が存在し、ここに聖徳太子が建てた本来の法隆寺があったと言われています。

法隆寺の見どころ

法隆寺は約18万7千平方メートルと、東京ドーム14個分の広さです。

その中でも法隆寺を象徴する西院伽藍と呼ばれる区域を紹介します。

中門

中門は西院伽藍の入り口です。

左右には日本最古の金剛力士像が立っており、左右に回廊が金堂、五重塔を囲むように続いています。

現在は入口として通ることはできず、離れて見るようになっている。

五重塔

法隆寺の五重塔は日本最古の塔であり、現代でも驚くほどの技術や素材が使用されています。

高さは約31.5m、当時の家は一階立てが普通であり、五重塔は画期的な建物だったと言えます。

1934年から1985年にかけて法隆寺の大修理が行われました。

その時に五重塔の木の部分を調べると、大きく修理する必要がないほどの良い状態だったそうです。

五重塔自体は、取り替え可能な仕組みであり、メンテナンスすることを想定した作りです。

雨風や蟻害以外にも、日々の修理が状態を保てた理由である。

木材は飛鳥時代の650〜690年代のものが多く、1300年以上の歴史があるので、日本最古の木像建築物と呼ばれる所以である。

樹齢1000年以上のヒノキを木材として使用したことも、状態を保った理由の一つである。

五重塔の構造は、積み上げ構造と呼ばれるものです。

真ん中に心柱を立て、各階を重ねて緩めに取り付けている状態であり、柱とは繋がっていません。

地震が起きても各階が振り子のように揺れ、振動を受け流して負担を軽減する仕組みです。

東京スカイツリーにも使われている技術であり、五重塔の技術力が高かったことが伺えます。

偽物と思われますが、心柱の下には仏舎利と呼ばれる、お釈迦様の遺骨が収められています。

金堂

金堂は西院伽藍では最古の建物であり、国宝にも指定されています。

軒の出が深く、鳥の羽を広げたような美しさがあり、釈迦三尊像、薬師如来像、阿弥陀如来像などの歴史ある仏像が安置されています。

金堂内には仏教壁画が描かれていましたが、1949年に火事により焼け焦げてしまいました。

この事件により、文化財保護法制定のキッカケになったほどです。

残った一部の壁画は保管されており、現在の壁画は復元されたものである。

仏像では、釈迦三尊像が本尊と呼ばれる中心的な仏像であり、背面には聖徳太子に関しての碑文が記されています。

母である穴穂部間人皇女、妃の膳部菩岐々美郎女、太子自身が相次いで亡くなったこと、釈迦像が造られたなどの内容が漢文で196文字ある。

太子の死後の623年に妃や子供たちが、鞍作鳥と呼ばれる者に作らせたと伝わっています。

北魏様式と呼ばれる中国の様式で作られた仏像です。

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まとめ

・法隆寺を建てた人物は、聖徳太子です

・法隆寺は607年の飛鳥時代に、奈良県生駒郡斑鳩町に建てられた寺院である

・日本最古の木造建築物であり、姫路城と一緒に日本初の世界遺産に選ばれた記録があります

・西院伽藍と呼ばれる区域に五重塔や金堂などがあり、法隆寺を象徴する部分です

(古墳時代)

・574年(1歳):聖徳太子の誕生、父は用明天皇、母は穴穂部間人皇女

・587年(14歳):蘇我馬子と物部守屋による丁未の乱では、馬子側に加わり、蘇我馬子が勝利する

(飛鳥時代)

・593年(20歳):皇太子に任命される、摂政になる

・600年(27歳):遣隋使を派遣する

・603年(30歳):冠位十二階が制定される

・604年(31歳):十七条の憲法を作る

・607年(34歳):法隆寺を建立する

・621年(48歳):母の穴穂部間人皇女が亡くなる

・622年(49歳):妃の1人である膳部菩岐々美郎女が亡くなり、その後に聖徳太子が共に斑鳩宮で亡くなる

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