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北条義時の子孫達はどのような人物だった?人物像を簡潔に解説!

鎌倉幕府の2代目執権として活躍した北条義時がいますが、それ以降の子孫達はどのような人物だったのでしょうか?

子孫達は、リーダーとして優れた者もいたが、欠如していた者もおりました。

義時と子孫達を簡潔に解説していきます。

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北条氏とは

北条氏は、伊豆国(現:静岡県)が本拠地であり、地方の豪族だが大きな勢力は持っていませんでした。

当時の当主である北条時政は、しっかり読み書きができるスキルがありました。

この時代の武士の多くは、まともに読み書きできませんでした。

その中で、時政は他とは違う存在だったと考えられます。

平治の乱で敗北した源頼朝が伊豆国に流罪となり、監視役を任されたのが北条氏です。

義政の娘である北条政子が頼朝と結ばれたことで、北条氏と頼朝は深い関係性になります。

平家に立ち向かうために頼朝は挙兵し、結果、関東の武士たちが集まり、鎌倉の地で鎌倉幕府が誕生しました。

頼朝の時代のときは、北条氏はあまり目立たない存在でしたが、2代目将軍の頼家の時代から、執権として力を見せるようになります。

そこから代々北条氏が、執権として幕府と朝廷すらも動かす存在になります。

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北条義時

北条義時は、初代執権である北条時政の次男として生まれました。

源頼朝が挙兵したときは、父と共に協力し、戦にも参戦しています。

義時の兄で長男の宗時は、幕府設立前の戦で戦死し、実質長男として育ちました。

頼朝の息子の頼家の時代では、十三人の合議制が作られ、将軍ではなく代表の十三人が訴訟などの問題解決をする仕組みができます。

メンバーには時政と義時が入っています。

この時の義時は江間という苗字を名乗っており、北条氏の代表は時政、江間氏の代表は義時という、権力を多く持とうとする策略だと考えられる。

すでに権力闘争が始まっていました。

時政は脅威となる者たちを次々に排除していき、北条氏の権力を高めようとしていきます。

だが、時政の行いに不満を抱く義時は、兵を率いて時政の館を囲み、時政を出家させました。

義時が2代目の執権になったが、脅威となる者を排除する動きは変わりませんでした。

邪魔者を排除し、後から無罪と発覚すると、直接手を下した者が悪いということで排除して終わらすというのが、北条氏の手口です。

1221年に、幕府に不満を抱いていた後鳥羽上皇が、幕府打倒のために挙兵した承久の乱が起こります。

戦力差は幕府の方が上であり、幕府軍が京都に入城したときに、後鳥羽上皇が敗北を認めました。

承久の乱に勝利したことで、本格的に幕府主導の世の中になっていきます。

朝廷側である武士達の荘園の権利は幕府が没収し、京都に六波羅探題という幕府側の組織を設置するなど、全国的に力を伸ばしました。

1224年、義時は承久の乱の3年後、61歳に病で亡くなりました。

北条泰時

北条泰時は、義時の長男であり、3代目の執権を引き継ぎました。

母の出自が低いため、本来は高貴な出自の母を持つ弟が後継者にふさわしい存在でした。

泰時が選ばれた理由としては、承久の乱などの戦で結果を出し、六波羅探題に所属し、京都で様々な教養を得たことにより、執権としての素質があったことです。

泰時の死後、遺産分配をしたときに、泰時自身はわずかにとどめ、ほとんど親族達に譲りました。

分け前を多く譲り、相手から信頼してもらうという良心的な考えを持っていました。

泰時を象徴する政策としては、御成敗式目の制定です。

武士に寄り添った法律であり、すでにあった律令という法律では対処できない問題のために制定されました。

承久の乱で全国的に武士が広がったが、鎌倉の東国武士は、律令では納得できる対処ができずに、トラブルが多発しました。

鎌倉内では事情が理解されていたので対処できたが、他の地域では事情が異なっていたからです。

泰時は、誰でもわかる形でルールを明確化しました。

室町幕府の建武式目や、戦国大名が作った分国法などにも御成敗式目が元になっているなど、後世に大きな影響を与えています。

泰時は北条氏で最も優れたリーダーと言われており、法や徳による統治を実現し、泰時の時代は目立った争いは起きませんでした。

北条時頼

北条時頼は、泰時の孫であり、5代執権です。

兄の経時が4代執権でしたが、病弱でありわずか4年しか勤めませんでした。

時頼は、撫民という、民をいたわり大切にしようという考え方を意識したことが特徴です。

武士である御家人達が力をつけ、荘園に暮らす人々を統治する立場になったことが理由の一つです。

安定的に経営すればそれだけ利益が生まれるという考えを持ち、根っこの部分である民を大切にしなければ、経営は成り立たないということである。

仏教などの幅広い教養により、撫民の思想を意識したのだと思われます。

北条時宗

北条時宗は、8代執権であり、時頼の息子です。

時宗といえば、元寇においてモンゴル帝国の侵攻に対処し、それを打ち破った印象が強いです。

国難を救った英雄として扱われていますが、冷静に見たら不手際が目立つ部分があります。

元寇が起こる前に、元から国書が送られてきましたが、内容は通行を求めるものであり、威圧的な内容ではなかったです。

朝廷は返事をしようとしましたが、幕府がそれを止め、返事をすることなく無視しました。

幕府が朝廷の行いを止めたなら、幕府がしっかり対処していれば、元寇を避けられたかもしれません。

2回目の元寇では、元は使者を日本に送り冊封関係を要求しましたが、時宗は拒否し、使者達を斬首しました。

この時代でも、使者を殺害するのは御法度であり、恐らくこれが2回目の元寇を招いたと思われます。

2回とも何とか侵攻を防いだが、総大将である時宗は戦場に近づこうとせず、鎌倉を動こうとしませんでした。

全国の寺社に異国降伏の祈禱という、敵を呪う呪詛を命じていました。

リーダーとしての時宗は、欠如している部分があると思われます。

しかし、幕府内の派閥同士の争いで、自由に身動きが取れなかった可能性もあります。

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まとめ

  • 北条氏とは、伊豆国の大きな勢力を持たない一族だった
  • 2代目執権の北条義時は、承久の乱に勝利したことで全国的に幕府の力が及ぶようになりました
  • 3代目執権の北条泰時は、御成敗式目を制定し、武士に寄り添った法律を作り、問題解決に導いた
  • 5代目執権の北条時頼は、撫民という、民を大切にする思想を持ち政治に携わった
  • 8代目執権の北条時宗は、元寇を起こした原因を作ったと可能性があり、リーダーとしては欠如している部分がある

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