織田信長は、歴史上でも特に有名な人物であり、その死因も一度は聞いたことがあると思う。
織田信長は、明智光秀が起こした本能寺の変という事件によって亡くなりました。
本能寺の変の背景、犯行の謎についてなどを解説していきます。
織田信長の死因
織田信長の死因は、本能寺の変により自ら自害した。
本能寺の変とは、家臣である明智光秀が、本能寺に滞在していた織田信長を急襲した事件です。
日本の歴史上、最も有名な事件の一つであり、長らく議論が続いている出来事である。
本能寺の変の背景
1582年3月に、長年の宿敵であった武田氏を滅ぼし、周りの伊達氏、最上氏、蘆名氏などの諸大名は信長に従う姿勢を見せていました。
東国は実質平定した状況であり、天下統一には西国の毛利氏や長宗我部氏を倒すことが必要であった。
そのため、1577年から続いている豊臣秀吉による中国征伐、1582年5月には三男の織田信孝が四国討伐の命を受けています。
柴田勝家は越後の上杉景勝と対峙し、滝川一益は上野へ出陣するなど、家臣たちは信長から離れていました。
毛利輝元と対峙している秀吉から救援要請を受け、信長自身も秀吉の元へ向かいます
信長が安土城から出発するとき、二、三十人ほどの人数だったらしいです。
この様子から、信長は光秀が謀反を起こそうとは思ってなかったはずである。
光秀は、秀吉を支援すべく1万ほどの軍勢を率い出発したが、秀吉のいる備中ではなく、京都へ向かってルートを変更しました。
その時の兵士達は、秀吉の元へ向かおうと思っていたので、急な進路変更に戸惑ったと考えられます。
謀反の情報漏洩を防ぐために、上層以外の兵士たちには伝えなかったはずです。
京都に向かうと知り、上洛していた徳川家康を討つのかと思う者もいました。
主君の信長を襲撃するとは考えられませんでした。
いずれにしても、上層部以外は本能寺に信長がいることは知らず、立場上、兵士たちは従わざるを得なかったと言えます。
1万の軍が本能寺を襲撃し、信長は弓や槍を使用し戦ったが、多勢相手にどうすることもできず、本能寺に火を放ち自害しました。
戦死したのは、信長の側近である森蘭丸を含め、五、六十人ほどと言われています。
光秀は次に、京都の妙覚寺にいる信長の息子である、織田信忠を襲撃します。
信忠は明智軍が迫っているという報告を受け、戦力差や逃げる途中の雑兵に殺されるなどの理由から自害しました。
1852年6月2日の6時ごろに本能寺の変は始まり、9時ごろに終了したと言われており、わずか3時間ほどの戦いでした。
信長と信忠の遺体は見つからなかったようであり、光秀は安心できなかったと思われます。
焼死体になっていたら、現代のように科学的に調べることもできないので、発見が困難です。
最終的に光秀は、山崎という地で秀吉軍と戦い、逃走中に落武者狩りで殺害されたか、自害したと言われています。
明智光秀が本能寺の変を起こした理由
明智光秀が本能寺の変を起こした理由は諸説あります。
3つほど紹介します。
信長を恨んでいた
光秀は、信長に恥をかかされた等で恨んでいたという説があります。
いくつかのエピソードがありますが、ここでは3つほど紹介します。
1つ目は、武田氏との戦いで諏訪郡を収めたときに「骨を折った甲斐があった」と祝いの言葉を言いました。
光秀自身は戦ってなかったので、どこで骨を折ったのかと激怒し、光秀の頭を橋の手すりの部分に擦り付けました。
「川角太閤記」「祖父物語」という信憑性が低い歴史書に記されているので、創作の可能性があります。
2つ目は、1577年に信長が家臣たちと酒宴を行なっていたとき、光秀がトイレに行こうと立ち上がったときです。
「きんかん頭、なぜ中座したのか」と激怒し、槍を突き付けられました。
こちらも創作の可能性があるエピソードです。
3つ目は、光秀の勝手な家臣の引き抜きにより、信長が激怒したエピソードです。
稲葉一鉄という武将に仕える那波直治という者が、光秀の引き抜きにより仕官しました。
一鉄は激怒し、光秀と信長に返還を訴え、信長は光秀に返還することを命じました。
家臣が別の主人に仕える場合は、前の主人の許可を得ることが決まりです。
信長は光秀が法に反したことに怒り、光秀の頭を数回叩き、そのときに光秀が付髪というカツラのような物をつけており、それが打ち落とされたとのことです。
3つとも共通して言えるのは、光秀が辱めにあっておりメンツが潰されていることです。
家臣達が側にいる中で仕打ちをうけている状況もあるので尚更です。
この時代はメンツを重んじる考えが強く、このような仕打ちでも重大なことだと言えます。
ただし、3つとも信憑性に欠けるエピソードなので、信長を恨んで本能寺の変を起こした説は疑わしいと思われます。
四国討伐を防ぐため
信長による四国への攻撃を防ぐために、光秀が本能寺の変を起こしたという説です。
四国を収めていた長宗我部元親は、信長と同盟を結んでおり、元親は信長の後ろ盾を利用して四国統一をめざしていました。
しかし、突如同盟を破棄することになり、長宗我部氏との関係が悪化しました。
長宗我部元親の妻は、明智光秀の親戚であり、光秀とは深い関係性を築いていたと思われます。
光秀は信長と長宗我部氏との交渉役を務めており、このときに交渉役を三好康長に変更したことも理由の一つです。
光秀としては複雑な心境であり、織田家から追放される恐れがあります。
過去に信長に仕えていた佐久間信盛、林通勝が追放された例もあります。
長宗我部氏との関係性を保つため、自分がリストラされる恐れなどから本能寺の変を起こしたという説です。
朝廷が黒幕
朝廷が信長に危機感を募らせ、陰で明智光秀に指示して本能寺の変を起こしたという説もあります。
有力な出来事としては、信長が暦の種類を宣明暦から三島暦に変更することを朝廷に要求したことです。
暦の決定権は代々朝廷が握っており、朝廷の権限を1つ奪おうとしたことになります。
信長が朝廷を圧迫した事例であり、朝廷は危機感を持ったのだと思われる。
朝廷は受け入れなかったが、それに対して信長は険悪な態度を見せた様子はないです。
暦の変更を要求した説としては、日食や月食が関係していると言われています。
この時代、日食や月食は不吉なものとして捉えられ、起こったときは光に当たらないように対策をしていました。
宣明暦では日食を予想できなく、三島暦だと予測できるということで変更を要求した考えがあります。
信長は天皇の身を案じた親切心ということであり、朝廷の権利を奪うつもりはなかったと言えます。
まとめ
・織田信長の死因は、明智光秀が起こした本能寺の変によって、自ら自害したことです
・明智光秀は、豊臣秀吉との戦いで敗北し、逃走中の落武者狩りに殺害されたか、自害したと言われている
・明智光秀が本能寺の変を起こした明確な理由は分かっていません
・犯行の理由は、信長を恨んでいた、四国討伐を防ぐため、朝廷が黒幕など諸説あります